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「あってもなくても大して変わらない」そんなブログです。

まだファン歴が浅いからこのようなことを書くのはどうかとも思うが

架乃ゆらさんの話である。

突如昨晩更新されたツイッターにおいて「しばらく充電したい」と発言、一切のコメントをシャットアウトし、一日が経過した。

何だか不吉な胸騒ぎがする。

まだ私は彼女のファンになってひと月がやっと経過した程度のごくごく浅いファンである。しかしながら、彼女の出演したアダルト作品はほぼ概要は把握しているし(半分はスケベ心に起因していることは言うまでもないが)、最新作品もチェックしているのだが、それとは別に私が気がかりな点が一つある。それは、

「架乃ゆらのLOVE昭和」という番組である。

知っての通り、彼女はアダルトビデオに出演している女優である…のだが、もう一つ、彼女にはとても変わった一面がある。

彼女は、「無類の昭和好き」なのである。

町にこじゃれた純喫茶があると立ち寄り、古本屋に入ると懐かしの写真集探しに没頭し、昭和のアイドルやヒット曲、特撮作品などを語らせたら下手なオタクが裸足で逃げ出すほどの熱い語り口で語り倒す…そんな彼女の表情の楽しそうなことときたら、齢40を過ぎて50になろうとしているおっさんがはまり込むのも無理なからぬことと思う。

そんな彼女の楽しそうな様子が堪能できる番組の撮影・収録、果ては無観客とは言え公開録画がストップしてしまう可能性が出てきてしまったのである。

そんなわけで、今日は一日頭の中で井上陽水の「傘がない」という曲がぐるぐる回るように響いていた。

なぜこの曲だったのか?

はっきり言うと、私は井上陽水の曲はかなり好き嫌いがはっきりしている。この曲はどちらかというと「嫌い」な部類に入る曲であった。「あった」と書いたのは、今この段階ではそれほど嫌う理由がなくなったからである。
この曲は正直に言うとかなり重い。のっけから重々しいピアノの響きに引っ張られるようにして独特の粘り気を帯びた陽水氏の歌声がかなり感情的に入ってくる。
それだけならばまだ良い。自殺する若者が増えている現状よりも、政治家がテレビで話しているわが国の将来の問題よりも、彼女の家に行くのに傘がないことを気にしているという主人公の態度…中学生だったころ、部活動でギター弾き語りを始めたばかりの私にとって、こんな不可解な歌詞はなかった。
そんなことのほうが大事なのか!?という、中学生ならではの直情的な反発だったかもしれない。
俺に彼女はいないからそんな気持ちはわからない…という個人的な理由もあるだろう(これは今なおそうだからまぁ納得する理由と言えるかもしれない)。

今だってこの歌の歌詞にはなお完全には共感しかねる思いはある。
ゆらさんに会いに行ってどうなる?
傘もなしに雨の中をわざわざ行くのか?行くとしたらなぜ私でなければだめなのか?
冷たい雨のせいでゆらさんのこと以外何も考えられなくなったり何も見えなくなったりすることが、今の私にはいいことなのか?
…答えの見つからない問いかけの連続に、私の心はつぶれそうになる。

それでも私はゆらさんが好きだから、せっかく好きになれたのだから、彼女の楽しげな顔が見られる機会を失いたくないという痛切な思いに突き動かされて、今回、言葉にしづらい思いをあえて言葉にしてみた。
うまくまとまってはいないが、ゆらさん、ファンの一人として、あなたが心の平穏を取り戻し、笑顔を取り戻せる日を待ち望んでいます。